
原九右衛門 と 富岡鉄斎

原九右衛門 はらくえもん (1827〜1915.10.22)
富岡鉄斎 とみおかてっさい (1836.1.25〜1924.12.31)
(ちなみに「夜明け前」の主人公)
青山半蔵 1830-1887 56歳 明治19年11月29日没 1853年ペリー黒船来航 23歳 17歳と結婚
「原 九右衛門 と 富岡鉄斎とは親交があり、
園原碑建設など地域文化の向上にも尽した。」
この頃の九右衛門と鉄斎との交流の様子は、鉄斎の残した筆録に伺うことができる (鉄斎筆録集成第一巻)
富岡鉄斎は明治大正期の大文化人 詳しくは、クリックしてみてください。
鉄斎は明治8年7月信州浪合村から飯田に来て一週間ほど逗留後、甲府から19日に冨士山に登頂しています。

この旅行の記録を「信濃浪合及登嶽記」として残している。(上記筆録集成)
その中で 7月4日 飯田泊
、、、又同州栗矢村 原九右衛門、是ハ増田平八ノ回縁人、士族タル者ニテ、
又尹良親王ノ祠事ヲ知ル、右原面会ニ来ル
且、石碑建立ヲ談ス、 拙云、京都へ帰リ、金貨ヲ募リ、而シ後ニ為ス所アラン、、、
7月11日 原九右衛門へ、石碑建立ノ募簿ノ序ヲ書、且一円一方、石碑建立ニ寄付渡ス、、、
九右衛門さんとは、この飯田滞在中、尹良親王(タダヨシシンノウ=後醍醐天皇の孫)の記念石碑を浪合村に立てる件で何度も会談したようです。
鉄斎は12日に飯田を発ち、7月18日に吉田口から八合目まで登り、翌19日に富士の山頂に立ちました。
後に鉄斎は明治36年(1903) 尹良親王(タダヨシシンノウ=後醍醐天皇の孫)の殉難記念碑の建碑式に出席のため再度飯田に来ています。
そして 10月14日に 除幕式に出席した。
そのあと二人は連れ立って、諏訪、長野から姥捨山の名月を賞し、妙義山へ登り、東京へ出てから、成田、大洗、勿来、仙台、奥州松島から日光まで大旅行をしたようです。
---鉄斎の信条---「万巻の書を読み、万里の道を行く」---まさにその通りの人だったようですね。 一方、原九右衛門 ---「文の林を辿るべし!」---とも共鳴するところがあります。
鉄斎筆録集には、次の記録も載っていますので右に引用させていただきましょう。
尚、鉄斎筆録集成 第一巻は、成田山仏教図書館所蔵図書を参照させていただきました。
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