原 九右衛門




昭和4年に発行された市村咸人著「伊那尊王思想史」には、原九右衛門氏について数ページにわたり記述されています。
この書物は、島崎藤村が「夜明け前」を書くにあたりそのネタとしたものだそうで、九右衛門氏の生きた時代も丁度「夜明け前」 の主人公 青山半蔵の生きた時代と重なっていたわけです。
 「夜明け前」に直接九右衛門氏の名前は登場しませんが、九右衛門氏を平田学派に紹介したとされる阿島の近藤至邦は第十章あたりに登場しています。だからあの小説に描かれている山吹の国学神社の設立や、水戸天狗党事件などの折には九右衛門氏も平田門人として半蔵等と一緒に東奔西走していたことでしょうね。

青山 半蔵  1830−1887(56歳) 明治19年11月29日没 
 1853年ペリー黒船浦賀に来航 23歳 17歳のお民と結婚
原 九右衛門 1827−1915(88歳) 大正4年10月22日没

次に同書の人物略志により、原九右衛門氏紹介文をそのまま掲げましょう。


原重與 (ハラシゲトモ) 幕末井原氏、後原氏に復帰した。 重與の父は九右衛門重穏、母は美那、文政十年十月十七日栗矢村に生る。 家を嗣で九右衛門を称し、ヒイラギノ舎又は武栗(俳名)と号した。年少時代から農事と神道上の御勤めとで錬えられた身体は金鉄の如き骨格で、蛍々たる眼光は一寸見ただけでも常人ではない事がわかると云った容貌であった。維新前山本村近藤家に仕えて給人格となる。明治五年伍和村戸長、同七年には筑摩県第十九番中学区取締を、同八年には筑摩県第二十一区区長を、同十二年下伊那郡書記を勤務、間もなく辞して官途に志を絶ちたる後は実行教教長、大日本実行会下伊那支会長として専ら精神教育に力を致し、大正四年十月二十八日八十九歳を以て没した。卿民は其の徳を慕ひ同年十二月五日村葬した。現系はその孫準平氏である。
述懐
世の中にねかひなき身も花鳥にあくかれいつる春の野辺かな



       市村咸人 [伊那尊王思想史]より  飯田市立図書館蔵


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