原 九右衛門





原九右衛門 はらくえもん (1827〜1915)

 伊那郡栗矢村(阿智村伍和栗矢)の原重隠(しげやす)の次男。字を重与(しげとも)といい、 柊舎(ひいらぎのや)・武栗(ぶりつ)と号する。

幼くして不二教の信者、のち実行教の郡教長となり平田学派門人。

明治30年浪合村恩田から八キロメートルに及ぶ恩田疎水の開削を計画してその委員長となりこれを完成、約三十五ヘクタールの地を水田化した。

また、富岡鉄斎と親交があり、園原碑建設など地域文化の向上にも尽した。伍和(ごか)村の村葬をもって葬送された。

太田 宗碩 おおた そうせき (1839〜1890)

長野県歴史人物大辞典によれば、《下伊那郡阿智村伍和の向関に、漢方医の太田家があった。越之進は宗碩と号し、嘉永年間から寺小屋も開いた。その子豊太郎も宗碩を名乗り、漢方医のかたわら寺小屋の師匠をした。伍和地区の農耕に大きな恩恵をもたらした恩田井水の開削に着想したのは、二代目宗碩といわれる。》

[長野県姓氏歴史人物大辞典]より。


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