#   恩 田 井 水   #


伍和村は中央アルプス・恵那山の東南方 日ノ入山の麓に広がる小さな村です。
こんな山中でも、あちこちから土器や石器が出土しており、古墳なども有ったりで
大昔から人が住んでいたのですね。しかし江戸時代までは、水田も極わずかしかない
ほんとの寒村だったようです。
ところがこんな不毛の地を、実り多い豊かな大地に大変革した人物が現れたのです!




その人こそ 本日の主役 

  原 九右衛門

さんです。

年少時代から農事と神道上の御勤め
とで錬えられた身体は金鉄の如き骨格で、
蛍々たる眼光は一寸見ただけでも常人では
ない事がわかると云った容貌であった。
(伊那尊王思想史)という。

この画像からもそんな雰囲気が
うかがえますね。(着色は筆者が任意に)
この人が伍和村に残した功績の第一は
 恩田井水を企画、実行し、35ヘクタール
もの水田を開田させた事ですね。








ブルもパワシャべもない、ツルハシとモッコの時代ですから、この工事いか程だったんでしょうか。


伍和村の水田はそのほとんどが恩田井水の水の恩恵を受けて耕作されています。
現在は飲用水として伍和のみならず、隣村の下条でも利用されているそうですから
その恩恵は量り知れませんね!


これは驚きですね  あの大事業 あの時代 ツルハシとモッコの時代でしょ 
それがたったの 一年半で完成したとは !

!


!
詳しくは赤羽千鳳著・寒原の水・ !
以下には九右衛門翁に関する諸資料を少々集めてみました。これらを参考に原九右衛門さんの足跡などを辿り、その偉大な業績を再認識してみよう
  その他

冒頭と終末の石碑の画像は、伍和 大鹿にある 恩田井水記念碑

参考※ 原九右衛門 はらくえもん (1827〜1915) 伊那郡栗矢村(阿智村伍和栗矢)の原重隠(しげやす)の次男。字を重与(しげとも)といい、 柊舎(ひいらぎのや)・武栗(ぶりつ)と号する。
幼くして不二教の信者、のち実行教の郡教長となり平田学派門人。
明治30年浪合村恩田から八キロメートルに及ぶ恩田疎水の開削を計画してその委員長となりこれを完成、約三十五ヘクタールの地を水田化した。また、富岡鉄斎と親交があり、園原碑建設など地域文化の向上にも尽した。伍和(ごか)村の村葬をもって葬送された。[長野県姓氏歴史人物大辞典]より。


原重興(はら・しげとも) 実行教教長、用水開発功労者。1827(文政10)〜1915(大正4)年。伊那郡栗矢村(現阿智村)の旧家原家の二男に生れ、長男が早世 したため家を継いで九右衛門を襲名する。父の影響を受けて幼い時から不二教の信者となり、1863年(文久3)阿島の平田門人近藤至邦の紹介で平田篤胤没後の門人となった。 明治初年に飯田を訪れた柴田花守や西川須賀雄らの実行教会の幹部と交わり、実行教の普及伝播に努めた。72年(明治5)伍和村の戸長、79年下伊那郡書記などを勤めたが、82年不二教が神道として独立 して実行教となってからは、その教長となり、社員も上、下伊那郡下に2500人を数えた。93年(明治26)には村民に呼びかけて栗矢村に浪合川の水を引いての開田を企画し、99年には6.5キロに及ぶ用水が完成、水田三十五ヘクタールを開発した。1906年(明治39)には婦人会を組織し、勤倹貯蓄を勧めるなど、地方の産業と文化の向上に貢献した。八十九歳で死去し、村葬が行われた。[長野県歴史人物大辞典]より。


原重與 (ハラシゲトモ) 幕末井原氏、後原氏に復帰した。 重與の父は九右衛門重穏、母は美那、文政十年十月十七日栗矢村に生る。 家を嗣で九右衛門を称し、ヒイラギノ舎又は武栗(俳名)と号した。年少時代から農事と神道上の御勤めとで錬えられた身体は金鉄の如き骨格で、蛍々たる眼光は一寸見ただけでも常人ではない事がわかると云った容貌であった。維新前山本村近藤家に仕えて給人格となる。明治五年伍和村戸長、同七年には筑摩県第十九番中学区取締を、同八年には筑摩県第二十一区区長を、同十二年下伊那郡書記を勤務、間もなく辞して官途に志を絶ちたる後は実行教教長、大日本実行会下伊那支会長として専ら精神教育に力を致し、大正四年十月二十八日八十九歳を以て没した。卿民は其の徳を慕ひ同年十二月五日村葬した。現系はその孫準平氏である。
述懐
世の中にねかひなき身も花鳥にあくかれいつる春の野辺かな
       市村威人 [伊那尊王思想史]より  




戻る