
原 九右衛門 と 旧伍和小中学校校歌

上の資料に有ります 「たわみなく〜〜〜ふみのはやしの〜〜〜」 の歌は、校歌に取り入れられて

「阿智の川水 夜昼に 早瀬の波の よどみなく
進みゆく世に心して 学べ学べの 教え草
伍和の里なる学び舎の へだてぬ窓の 友がきよ
皆はらからと 親しみて 文の林を たどるべし
強く正しく 人の世に つくす心の 赤石山
道一筋を 迷わずに やがて高嶺に登るべし 」
今思い出してみると、当時はなんだか暗いように感じたけど、なかなかいい歌だった。
追記、 そして、伍和の大鹿 水無神社の近くに 「信濃文学館」 というのが有ります。
私が思うに、これも造られた方は、きっとあの「---文の林を辿るべし」の文言を意識されていたのではなかろうか。
そこは数々の文学碑が立ち並び、まさに 「文の林」 になっているのです!
原重興(はら・しげとも)1827(文政10)〜1915(大正4)年。
伊那郡栗矢村(現阿智村)の旧家原家の二男に生れ、長男が早世
したため家を継いで九右衛門を襲名する。父の影響を受けて幼い時から不二教の信者となり、1863年(文久3)阿島の平田門人近藤至邦の紹介で平田篤胤没後の門人となった。 明治初年に飯田を訪れた柴田花守や西川須賀雄らの実行教会の幹部と交わり、実行教の普及伝播に努めた。72年(明治5)伍和村の戸長、79年下伊那郡書記などを勤めたが、82年不二教が神道として独立
して実行教となってからは、その教長となり、社員も上、下伊那郡下に2500人を数えた。
93年(明治26)には村民に呼びかけて栗矢村に浪合川の水を引いての開田を企画し、99年には6.5キロに及ぶ用水が完成、水田三十五ヘクタールを開発した。1906年(明治39)には婦人会を組織し、勤倹貯蓄を勧めるなど、地方の産業と文化の向上に貢献した。八十九歳で死去し、村葬が行われた。[長野県歴史人物大辞典]より。
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